今日の絶筆−6−【sawa】
sawaです。
昨日描いた絶筆もといディズ◯ーで思い出したことがあります。
幼少の頃やたら描いていたキャラクターがいたんです。
懐かしさのあまりにブルブル武者震いがしたので、今日はそのキャラクターを描きました。
あぁーーー!可愛いっっっ!!!!
我ながらなかなか可愛く描けたと思う!
ア◯パ◯マンに出てくるドキ◯ちゃんです。
◯ンパンマンの最初のテレビ放送が始まった時、私は幼児。
あの衝撃は今でも鮮明に覚えています。
その中でもド◯ンちゃんにハマっていた私は、ノートに◯キンちゃんのイラストを描くだけでは飽き足らず、謎の女の子(多分私。)のコンビで物語を書いていました。
しかも結構長編。おまけにシリーズ化もしてた記憶が。笑
なんであんなにハマってたんだろう…ドキ◯ちゃんの女子な部分が子ども心にヒットしたのかな。。。
憧れの存在だったのかもしれません。
今でも魅力的だと感じます、ド◯ンちゃん。
こうやって一つ一つ、思いや記憶を紐解きながら描き記していくと、昔の思い出や忘れかけていた情熱、目を背けたくなるような苦しい過去など、いろいろなことが浮かんできます。
これまで描いてきた絶筆6枚は、はたから見ればただの落書きです。
が、それらを描く前後の時間に私の心はたくさん揺れ動かされています。
きっと、ただ頭だけで悶々と考えるよりも”描く”という行動によって整理されているのでしょう。
描いた後は、前向きな私になっているのです。
絶筆=死を意識しがちですが、意外とこの作業は、生きる意欲を沸き立たせるものなのかもしれません。
sawa
今日の絶筆−5−【sawa】
雨が降ってきました。
sawaです。
これから1週間はぐずついた天気が続くみたいですが、そのあとはいよいよ寒くなるのでしょうか。どうでしょね。
さて、今まで描いた絶筆を振り返ってみると、文字ばっかりだということに気づきます。
そろそろ絵が描きたくなってきました。
実は私、小〜中学生の頃は漫画家になるのが夢でした。
短大時代は一応美術部でした。
なので絵を描くのは好きだったはずなんです。
(あ、絵と言ってもイラスト系の可愛いやつです。風景画とか写実的なのは苦手)
でも社会人になると絵を描くこともほとんどしなくなりました。
絵を描くことは小さい頃の私にとって欠かせない遊びの一つだったのです。
そんな無邪気だった頃の私に還りたい。
私はすっかり大人になってしまったんだ。
よし、ここは私のルーツの一つとも言えるアレを描こう。
私のルーツとも言えるもの。
それはディ◯ニーです。
物心ついた時から家にあったレーザーディスクで◯ィズニーの作品をよく見ていたものです。
習っていたエレクトーンやジャズダンスの発表会の演目もディズ◯ー。
デ◯ズニー◯ンドのダンサーになることを夢見ていた時期もありました。
なんならディズ◯ー関連のお店で働いていた時期もありました。
私にとってディズニ◯は間違いなく夢と魔法だったのです。
今日の絶筆は、もし本当にこれが絶筆になったとしたら、私のことをよく知っている人が見たら「sawaってば、最期までこれですか…ホント好きだったよね」と呆れられるかもしれない、そんな一枚です。
それではどうぞ。
あ、本家から、勝手に描いたことを怒られないように、念のために伏せてみました。
(余計怒られそうwww)
sawa
『おばけ計画』解説シート作成中 ハルノシュ
現在,来館者の方に配布するための『おばけ計画』の解説シート作成中です。いつか,余裕があるときに造本もしたいと考えています。お知らせまで。
今日の(昨日の)絶筆−4−【sawa】
こんにちは。
昨日はブログをアップする前に寝落ちしてしまいましたsawaです。
それでは早速、夕べ描いた絶筆をご覧ください。
(日付を思いっきり間違っているのはご愛嬌)
「ふざけてんのか」という声がどこかから聞こえてきそうですね。
弁明させてください。
今日(昨日か)、”手書きPOP教室”なるものに行ってきたんです。
ほら、地元のスーパーとか、◯レッジヴァン◯ードとか、TSUTA◯Aとか、ド◯キホーテとかに行ったらよく貼ってあるアレですよ。
特売!とか店員さんオススメ!とか。
先週と今週の2回講座だったのですが、
これまたとっっっっっっても面白くてですね!
あの値札や広告、こんなにいろんな工夫がされてて、しかもかなりの技術を要するんですね!!!!
ホント職人技!
でも、ちょっとコツを掴めば誰でもそれっぽい字が書けるようになる、という手軽さや魅力もある。
深い…恐るべしPOP文字!!
というわけで、その感動と、せっかく得た技術を少しでも身に染み込ませるために、今回はPOP文字をフューチャーした絶筆を描いてみました。
描いた文字はハワイの言葉の中でも特に大好きな”Mahalo”です。
本当はアルファベットで描きたかったのですが、今回の講座ではアルファベットは習わなかったので、可愛く(?)ひらがなで。
生地の織りがいい感じに活かされています。
”Mahalo”って、ハワイに行ったらいたるところで聞く言葉なんですね!
いわゆる”Thank you”的な使われ方をされていました。
昨年、初めてハワイを訪れたのですが、正直それまでMahaloの存在を知らなくて!
その言葉の語感というか響きというか温かさというか、そんな不思議な魅力のある言葉だなと思って、すっかり好きになっちゃったんです。
”ありがとう”や”感謝します”という意味合いで使われている言葉ではありますが、
”ma”=「〜の中に」
”ha”=「息(魂、命)」
”alo”=「〜の前に、共有する、向き合う」
という3つの言葉で成り立っているMahaloには「あなたが魂の中にありますように」という意味も込められているそうです。
ハワイでは、あらゆるものに”マナ=魂”が宿っていると考えられていて、それは言葉も同じ。
日本でも”言霊”という言葉がありますよね。
たった3文字の言葉ですが、Mahaloという挨拶になんとなくその魂というか温かいエネルギーみたいなものを感じ取っていたのでしょうね。
だから好きなんだと思います。
もしこれが絶筆になったとしたら、今までの感謝の気持ちをこのMahaloに込めて伝えることが出来たらいいなと思います。
sawa
今日の絶筆−3−【sawa】
さっき部屋に入ろうと電気をつけたら、
でっかいヤモリがいました。
そして今、そのヤモリの動向を見張りながらブログを書いてます。
sawaです。
(ヤモリ自体は平気なんですが、なんせすばしっこいので、こんな夜更けにバタバタと捕まえて逃がす気力がないし、捕まえられる自信もない。でもずっと居続けてもらわれてもなぁ…どうしよう)
さて、今日の絶筆。
何も描きませんでした。
描く気になれませんでした。
心から”描きたい、描いてみたい”と思えるものが浮かんでこなかったのです。
そもそも、私は自分のプロジェクトの一環として描く、という選択をしていますが、プロジェクトとか、人に見せるためとか、そういう理由を取っ払った状態で何か作品を作る、となった時には、まず”作りたい”、”とにかくこの想いや考え、気持ちを形にしたい”というような、何かしらの衝動があると思うのです。
善三さんの描いた「絶筆」だってそうだと思うのです。
「これは後々最後の作品として紹介されるだろうからこういう構図で云々…」なんてことは考えていないはずです。
自分のやりたいことを、ただ素直に表現しただけ。
今回のプロジェクトに限らず、私がこれまでやってきた表現活動は”他人目線”ばかりを意識してきたような気がします。
良く言えば、見ている人に喜んでもらいたい、楽しんでほしいというサービス精神。
だけどもしかしたら、自分の本当の気持ちを置き去りにしていたところがあったのかもしれません。
私が本当にやりたいことってなんなんだろう。
自分にとって、表現するってなんなんだろう。
善三さんの作品を通して、まさかこんなに自分自身と向き合うことになるなんて思ってもみませんでした。
(部屋にいたヤモリですが、見事に見失いましたwお願いだから外に出てって…)
sawa
今日の絶筆−2−【sawa】
毎日絶筆を描く、と決めたことを早くも後悔しているsawaです。
今日は帰ってくるの遅かったし、忙しい日はサボるか…
と投げ出しそうになりましたが、
そもそも私に明日があるとは限らない。
なんのためのプロジェクトだ。
じゃあいつ描くんだ。
今でしょ。(古い?)
ということで。
今日は、”今”を感じたい気分でした。
今を感じるために瞑想をしました。
瞑想をしていると、ただただ”いまここ”にいる自分を感じることが出来ます。
今日はそんな”いまここに居る自分”を絶筆として描き表してみよう。
どうやって表わそうか?
そうだ、その時に聞こえていた音を描こう。
と思い、結果、こうなりました。
こ…
こわい…笑
うちの周りは比較的静かな環境なので、虫の音か時々通る車か風の音しか聞こえません。
しかし、その場に身を任せぼんやりとしていると、それまで聞こえてこなかった音も聞こえるようになってきます。
ちょっと前まで聞こえていた鴨の鳴き声がいつの間にか聞こえなくなった、とか
少し離れたところに居る、地震の復旧工事の人の話し声が聞こえたり、とか
手で触れていないけど、自分の心臓の音が聞こえてきたり、とか
普段忘れていたり、気に掛けていなかったことも思い出させてくれます。
静かな環境だけど、こうやって聞こえてくる音を文字にすると、静かだと思っていた夜はとっても賑やか。
たくさんの音で溢れていました。
同じ家でも、部屋を移動するとまた違う音が聞こえてくるのがまた面白い。
音を感じることで、季節や時間を感じる…
秋の夜長の過ごし方としてこれほど贅沢なことはないかもしれません。
そんな贅沢な時間をいつまでもいつまでも感じていきたい、と改めて思いました。
sawa
今日の絶筆【sawa】
こんにちは。
sawaです。
「こんな解釈、ありなんだ!」展はお楽しみいただけていますでしょうか?
まだの方、この機会にぜひ小国まで足をお運びくださいませ。
小国へ向かう途中の道はすっかり秋の気配。
この時期のミルクロードは最っっっ高です。
さて、私はと言いますと、
展覧会初日の”絶筆クチュール”の公開制作を終えて、しばらく放心状態となっておりました。
善三先生の絵と共に、私の作品が展示されているなんて未だに実感が湧きません。
作品としては、展示して一旦一区切りしましたが、
私の中ではこのプロジェクトはちっとも完結しておらず、
ずっと、どう決着をつけてやろうかという思いが頭から離れません。
そうやってしばらく燃え尽き症候群ながらも悶々としていた私ですが、
先日、ある重大なことに気づきました。
それは、
「私、絶筆描いてない!!」
ということ。
いや、一応描いてはいるんです。
でもそれは、描いて頂くみなさんに参考資料として見せる為に描いたようなもので、
思いはそれなりに込めてはいるんですが、自分の中では「違う」んです。
(ちなみにこれです。最初は線だけだったけど、後日文字を書き足したという…これも展示作品に紛れ込ませています。)
人に半ば無理やり描かせといて、発起人がそもそも絶筆というものに向き合ってないなんてどういうことなの…!!!!?
というわけで、今日から毎日1枚、絶筆を描くことにしました。
(毎日1枚、絶筆を描くって、どういうこっちゃ。)
その日その日を大事に嚙みしめながら。
一応期限を決めてやります。1週間。短期集中。
そしてそれを公表していこうと思います。
そんなわけで、今日の絶筆はこちらです。
私の手をなぞって、20年後の自分へ手紙を書きました。
なんでこんな形にしたかというと理由があります。
私が二十歳の成人を迎えた時、手紙が届きました。
それは私が1,2歳くらいの時に両親が書いた、私宛ての手紙でした。
そこには当時の私の手をなぞったものと、幼い私の様子や未来の私への思いが書かれていました。
(昔、そんなタイムカプセル的なサービスがあったらしいです。)
それを受け取った時、両親の愛やらなんやらを凄〜く感じて、とても感動したのを覚えています。
私、こんな手ぇちっちゃかったんだぁー!みたいな。
大切な宝物です。
私が死んだら棺桶に一緒に入れて欲しいものの一つです。
あの手紙には到底敵いませんが、
その時の喜びや、時空を超えて届くであろう書き手の思いを再現したくて、
20年後の私への手紙を今日の絶筆として描いてみました。
”絶筆”だけど、20年後にこれを読みたいという矛盾。
20年後の私にぜひとも会いたいという気持ち。
”死”への恐怖よりも、”この先も願わくば生きていたい”という欲を込めて。。。
sawa