小国び塾活動日誌

藤浩志プロデュースによる「小国び塾」参加メンバーが、坂本善三美術館の収蔵品から発想して取り組む「アートなプロジェクト」の記録です。

続々タネが +zen

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昨日も、町内外からタネが続々寄せられました。みなさんん、ありがとうございます! 矢車草、おしろい花、風船あさがお、黄コスモス、かぼちゃ、ヒゴタイ、ヒメユリ、そして…「夜の蝶」。

 

頂いたタネは、なんとか生育させるべく、タネまきの方法から管理方法など調べてまいているのですが…「夜の蝶」が何なのか、わかりません。「蝶」をキーワードに調べてみると、胡蝶蘭、ビオラの一種の呼び名あたりが検索候補にあがってきますが、どうしてもムーディーな方面にひっぱられてしまい、有力な情報に今も接していません。下さった方にお電話して聞いてみようかな…。

 

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そして、本日も頂きました。写真は、毎度おなじみご近所Sさんの畑のお花。「畑にいっぱい咲いちょったけん」と持ってきてくださいました。いつもご近所のみなさんには本当によくして頂いて、感謝です。

鳥象君(とりぞうくん)のこと ハルノシュ

 坂本善三の作品に『象』(油彩・1981)と『鳥』(リトグラフ・1980)がある。何れも,短めの筆跡を幾つかの方向から素早く重ね合わせ,それを画面に並べた作品だ。これらの作品は何者かが動いた跡の残像を連想させる印象的なシリーズである。

 私はおばけ計画を始めて間もない時期,試作を三つ作った。その中の一つに,『象』(油彩・1981)を題材にしたおばけがあった。この『象』が鳥に見えたのをきっかけに,鳥のイメージを借りた善三作品のおばけを作ろうと考えたのだ。(そのときはまだ,『鳥』(リトグラフ・1980)が“とり”というタイトルの作品であることを知らなかった。)試作の段階では,『象』が“ぞう”とも読めることから“とり”と“ぞうさん”の組み合わせによるおばけを思いついた。そして,尾の部分などに鳥らしさを残すように意識しつつ,象のように鼻を長くした。また,表面の7割ぐらいに『象』(油彩・1981)を和紙に印刷したものを三角形にちぎって覆うようにして仕上げた。けれど残念ながら,その試作は解説がなければ,それが善三さんの『象』を元にした作品と分かり辛かった。

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 完成後,小国び塾で試作をメンバーに見て頂いたとき,『象』(油彩・1981)について,「この作品のタイトルは(ぞうさんの)“ぞう”と読めますので・・・」と説明すると,善三美術館の学芸員の方が「これは“しょう”と私たちは呼んでいます」と教えてくれた。おそらく『象』とは,“形象”のことであり,善三さん自身,動きのあるものが過ぎ去った形の痕跡のようなものを抽象的に示したかったのだろうと感じた。

 ところで,リリー・フランキーの漫画『おでんくん』にはお餅と象が組合わさった“もちぞうくん”が時折登場していた。“もちぞうくん”は他確か「もちぞう,もちぞう」と言いながら,チャーミングに動き回っていた。これにあやかり,2作目と3作目を制作するにあたって,“鳥”と“象”の組み合わせたこのおばけを“とりぞうくん”と命名した。今回は,試作に比べ,象らしさを更に強調するために,(はるのこうりん の助言により)耳をつけ,鼻に象牙色の蜜蝋を使い,足底を太く,丸くしてみた。

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更に善三さんのオリジナル作品のイメージを損なわないようにするために,和紙に印刷した『象』や『鳥』のイメージを体の部分にあまり加工を加えず使用した。“もちぞうくん”ほど,キュートではないが,善三作品を契機に不思議なおばけが誕生したと感じている。

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言葉を、さがす

みなさんはじめまして。「小国び塾」に参加させていただいていますヤマシタと申します。
住まいはこの小国町にありますが、福岡市内や北九州方面、熊本市内で大学の非常勤講師をやっています。
専門は西洋哲学ですが、勤務先によっては論理学や芸術学を教えています。
このブログに一回も記事を書いていないのはお前だけだという近親者からのプレッシャーに押されるかたちでやっとパソコンのエディタを立ち上げることができました・・・。

 私のテーマを「坂本善三を読む」です。
絵画作品そのものと作家本人が雑誌・新聞に寄稿した文章やインタビューに残したことばとが互いに反響し合うような出来事、そしてそのような言葉の反響の中に観客(そしてそれは今回「読み手」あるいは「聴衆」でもある)が巻き込まれていくような経験というものは可能なのか?もし可能であるならば、それはどのようにして可能になるのか?

いま僕は、実際に展示する作品と並ぶべき「言葉」を作家が残したテキストから拾うという作業をしています。落ち葉拾いならぬ「言の葉拾い」です。坂本善三は寡黙なグレー、寡黙な黒といった言葉で表現される作家ですが、残されたテキストは思いのほか多いのです。

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芸術家の言葉といえば学生の頃、岩波文庫から出ている『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』を読んだ時にとても驚かされた記憶があります。

人類史上に残る天才レオナルド・ダ・ヴィンチが残した言葉であれば、それはそれはありがたい滋味溢れる言葉で埋め尽くされ、一読すればすなわちこの愚かな身の上もたちまちにして光明に包まれ、人としての段階を一つばかりか二つも三つも向上させられると思っていました。

・・・私が莫迦でした。

まさかの冒頭から罵倒の嵐。

私が学者でないから、ある威張り屋は私のことを文字も知らぬ人間だと断ずればそれだけで私をもっともらしく非難できるととお考えのようであることを私は十分承知している。馬鹿な連中だ!
(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』岩波文庫、1954年、p.19) 

たとえ奴らのように、著作家たちを引用することができたところで、奴らの先生の先生たる 経験 を引用する方がはるかに偉大でありかつ読む価値も大きい。やっこさんたち、自分の苦労ではなく他人の苦労で膨れ上がり贅を尽くして飾りめかしている。・・・そしてやっこさんたちが創作者たる私を軽蔑するなら、創作者でなくて他人の作品のラッパ卒兼暗誦者に過ぎないやっこさんたちこそ、遥かに非難されて良さそうなものではないか。(同上p.20)

おお人間の愚劣さ!お前は一生涯自分と一緒に暮らしながら、しかもまだおまえの一番たくさん所有しているものを、つまりおまえの阿呆らしさを理解していないのを悟らないのか?そのくせおまえは数学を軽蔑することによって山のような詭弁家連中とともに、自分を他人をもごまかそうとしている。(同上p.23)

 

もちろん全部がこういう調子だというわけではなく、後半の文学・芸術論、科学論ではだいぶ冷静な筆致になっています。しかし、そこにおいても認識の「冷徹さ」が一貫して存在していることは否定できません。

この僕のレオナルド体験は、やはり大層堂々たる格好良い言葉が並んでいるのであろうと思って読んだ『ナポレオン言行録』がどれだけページをめくっても奥さんへのラブレターばかりで辟易したのに似ていながらまったく異なる衝撃で今日まで僕に影響を及ぼしています。

いま再びダ・ヴィンチの手記を読めば、当時の画家や彫刻家の社会的地位についての知識などを鑑みて理解しなけらばならないところもあるし、そもそも激しい口調は単なる無理解な世間への罵倒ではなく、自分自身への自戒も含めた人間存在そのものへ向けられたものであると理解しなければならないでしょう。

しかし、そこに常に伏流している、経験を重視すること、自然に学ぶこと、数学や科学的知識の重視は、はからずも坂本善三の創作活動のなかに見いだすことができます。坂本善三は自然の秩序や自然の移ろいにのっとった作品のことを考える、絵は科学だから自然の原理に従って書くべきだ、等の発言を多く残しており、また、何よりも(日本人が大好きであろう)「枯淡の境地」なるもので絵を描くことを自らに厳しく禁じています。

・・・こうした事柄も何か展示に活かせるのではないかと、ときおり窓から入ってくる小学校運動会の練習の音を背景に、日々キーボードをパチパチと叩いております。

 

文献研究が仕事なので、私にとっては本が仕事道具なのです。ところが先月諸事情により期間限定の引越しをしまして、いま仮住まいで暮らしています。そんなこんなで仕事道具の多くはいまだダンボールの中・・・。

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 はやく彼らの力を解放せねば・・・「南本棚⑥上段洋書」って、中におるのはけっきょく誰たちなんや!

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ブログを書くにあたりどうしても参照したい本があったのですが、とうとう見つけることができませんでした 。

しかし「芸術関係」と書かれたいくつかのダンボールを発見!

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 なんで中身はウルトラセブンなんや!!

 

タネ、まいてます +zen

タネを頂けませんか?と呼びかけ始めて1週間。続々みなさんからタネが届き始めました。

昨日は小学生と保育園児の姉妹から「ばあちゃんちでとったホウセンカのたね」「ぶどうがりしたぶどうのたね」が届き、今日は、県南の某美術館のUさんから桜島大根のタネ、町内の「小国び塾」メンバー「たねもしかけも」さんからラディッシュが届きました。

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他にもフウセンカズラ、カスガボウブラ、ひまわり、コスモス、ゴーヤなど、頂いたものやたまたま手元にあったものをあれこれまいてみました。ひまわり(秋咲きタイプ)はぐいっと発芽しました!ほっ!

本来、今の時期がタネまきでないものもありますが、数粒ずつ育成チャレンジしています。

 

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そして、先ほど、新しいパターンのお申し出を頂きました。町内のTさんから電話があり、以下のようなお話でした。

「タネは、よう採らんけん(採取しないから)、鉢植えの苗が育ったら、その鉢ごと花を持って行ってよかろうか(いいでしょうか)」

タネは持ち合わせないけど、花を育ててるので、育ったらそれを鉢で持ってきてくださるとのこと。

 

タネがないから協力はできない、じゃなく、花ならできるからとわざわざご連絡してくださったことに、感激です。“ほんとうにいろんな活動が、地域のみなさんに支えられて成り立っていて、いつも感謝している”ということを素敵に書こうとしましたが、なんだかうまく言葉になりません。ありがたいです。

 

『山笑のタコ2 ハルノシュ』

 『山童閑遊』とは本来,西日本に伝わる山の童(わらべ)のおばけがのんびりと静かに遊んでいる様子だと考えられる。一方,“山笑のタコ”は『山童閑遊』のスケッチに登場する山形をしたタコのような存在が,人々を笑顔にさせたいとの想いを込めて制作した。何れも,得体の知れないものが,心穏やかに笑みを浮かべているところに共通点があるといえるだろうか。

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 ところで,この“山笑のタコ”のモデルである坂本氏が描いたタコのようなスケッチは,少なくとも主役ではない。言い換えるなら,主役の側に偶然いたことから,写真の隅に移っていた第三者といった感じだ。

 この作品の制作途中に,カール・マイケル・フォン・ハウスヴォルフの『今なお生きていることの142の理由』というアーティストブックを思い出した。これは,たまたま写真の端に写っていた身近な人々をハウスヴォルフが142名クローズアップしたような趣がある。この作品としての本は,主役だけが大事なのではなく,全体が重要だと感じさせてくれる。

 誰もが目にするような代表作なら誰かの脚光を浴びて,リメイクされることもあるかもしれない(実際におばけ計画では,善三の代表的な作品から着手した)。だが,『山童閑遊』は善三作品のメジャー路線でない。描かれて70年近く経っている上に,挿絵ということからしても影は薄い。けれども,数多ある善三作品が生き続けるのは,目立たない作品のディテールがあるからだ。

 日頃脚光を浴びることが少ないタコのような存在が立体化され,善三さんは天国で驚きつつ喜んでくれているだろうか。

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小国の街角からは今回おやすみです たねもしかけも

展示のコンセプトは早々に決まったものの、作品がなかなか見えてこない悩ましき日々を送っております。今回の企画は坂本善三さんの作品をじっくり読み解くことが第一の目的でありますので、たまには散歩せずじっくり思考してみる時間も大切です。

 

今回学芸員さんからお題としてご提案頂いた作品「壁A」は、坂本善三さんが47歳の時に旅先の欧州で描かれました。学芸員さんの解説によると、当時の欧州は薪を燃料とした暮らしで、壁面が煤けた灰色の世界でした。組積造の矩形壁面が水平垂直に積み重なって建物が構成されている様子に、建物に構造があることを発見した善三さんは絵画にも構造が不可欠であると悟りました(坂本善三年譜より引用)。これを機に具象から抽象的な表現へと進むようになったというのも非常に興味深く、絵画が純粋芸術として独立した存在であるという善三さんの強い意志を感じて、とても勇気を与えてもらいました。この作品に対して私はどう解釈し何を返答することが出来るのだろう。

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今回私は「床A」というテーマで、「腰掛けてゆっくり鑑賞することを促す冶具」を制作することにしました。とはいっても、上の写真にある3点のルールのとおり、新たには作りません。町内に既にあるもので構成する。簡単なようでなかなか難しいんですよこれが、と言ったところで何も生まれないので明日はまた散歩に出かけます。

ILOVE 卵焼き4

最初の勢いはどこへやらm(__)m日々の忙しさを言い訳に少し「び塾」から遠ざかっていました。それでもモヤモヤした気分を山下さんにバッサリ切り捨てられ言わば開き直りの境地でしょうか。そういう中で知り合いから「卵焼き」への想いが綴られてくると熱くなります。いつも脇役だけど家族の思い出の中では立派に主役になれる「卵焼き」。大好きだから何とか形にしたくて又慣れない事やってみました。卵のクッション材で卵焼きが作れないか?でもやっぱり無理かもです。f:id:sakamotozenzo:20170904113359j:plainf:id:sakamotozenzo:20170904113418j:plainf:id:sakamotozenzo:20170904113438j:plain