結局何を伝えたいの???子ども編 Part2【sawa】
【2017年7月31日(月)その③】※もう1ヶ月以上も前の話題ですが…
坂本善三美術館のアートクラブは今年で3回目とのことですが、毎回この方なしではやっていけないそうです。
レインボーマンこと、小国町在住の美術家、岡山直之さん。
アートクラブの影の立役者です。
日常生活において、美術家さんと密に関わる機会はなかなかありません。
ましてや今の私は”アートとは何か?”という壁にぶち当たっている。
是非ともここはレインボー岡山さんにご意見を伺いたい。
(そしてあわよくば岡山さんにも絶筆を描いていただきたい)
そんな下心丸出しで岡山さんに話し掛けたわけです。
が、
私のプロジェクト内容と取り組みについて一通り説明をしたところ、
要約すると、こんな感じのことを言われました。
「やりたいことはなんとなくわかるけど、その程度の気持ちじゃ全然ハートに刺さらないぜバッキャローーー!」
(注:実際にそう言われたわけではありません。)
ガーーーーーーーーーン。。。。。
そうです、私自身も薄々気付いていたのですが…
私、絶筆を収集することに一生懸命になってた…
たくさん集めることを頑張ってた…
口では「絶筆を通して、今生きているということの素晴らしさを感じてほしい」とか、「命は巡っていることを感じてほしい」とかそれっぽいこと言っちゃって。
でもこの時の私は、その想いが上っ面だったわけです。
そんな上っ面な想いを皆さんに伝えていたわけです。
カッコ悪い!
恥ずかしい!!
そら伝わらんわ!!!
(キッズ達も一生懸命描いてくれたのに…ごめんね。)
益々「アートってなんだ…」と考えを巡らすことになったのです。
ただ自分の衝動に任せてやるんではなく、その作品やプロジェクトの向こう側に届けたい人がいる。伝えたいメッセージが見える。
そして一方通行であってはいけない。
そのためには私はどうすればいいのか。
帰りの車の中でずっと考えていました。
未だに明確な答えは出ていません。
ただ一つ決めたのは、”これ以上絶筆は集めない”ということ。
集めるんじゃなくて、これから何かのご縁で出会う方たちと共に”生み出していきたい”と思いました。
(絶筆を生み出すって可笑しな表現ですが…)
レインボー岡山さんはアツい方でした。
こんな私にもたくさんのヒントを与えてくれました。(正確に受け取れているかは分かりませんが…;)
今回の小国び塾のボス、藤浩志さんも素敵な美術家さんですが、どちらかというと、終始ニコニコと温かく見守っていて、いざ!という時にヒョイッ!と助け舟を出してくれる感じ。
例えるならば、「スラムダンク」の安西先生。(見た目も何となく似てる…)
岡山さんは困っている人がいたら放っておけない、最初から全身全霊で関わりつつ、がっつりサポートしてくれる感じ。
例えるならば、「GTO」の鬼塚先生。
(失礼を承知で漫画で例えてみました。世代がバレバレ。笑)
そんなグレートな先生方から、この小国という地でたくさん学ばせていただいてることが、本当にありがたいです。
この経験を私の血肉にしていきたい。
もっともっとZENZO先生の作品と向き合って、たくさん感じて、自分の中に吸収して、展覧会を観に来てくださった皆さんに胸を張って説明出来るようなプロジェクトにしていきたいと改めて感じた1日となりました。
長くなりましたが、7月31日の記録でした。
sawa
『山笑のタコ1 ハルノシュ』
収蔵庫で24程もある全ての『山童閑遊』の挿絵に目を通したのは,7月17日ぐらいだったと思う。その時,その中の一枚の画面右隅に何気なく描かれた蛸のような存在に気がついた。それは,蛸といえば蛸。でも,別の何かのように見えなくもない。例えば,宇宙人とおばけの間の子ぐらいのものに。
ところで,蛸のおばけといえば,歌川芳員の浮世絵『百種怪談妖物双六』の右上に描かれている,漁船や漁師を海に引き込むという『土佐海の蛸入道』などが古くから知られている。何となく怖いイメージだ。だが,善三さんがスケッチした蛸のような存在は,それとは随分印象が異なる。そこには,現代のゆるキャラにも通じる愛嬌や親しみやすさが感じられる。このようなスケッチを描く善三さんは,きっと,ユーモラスな一面を持ち合わせていたことだろう。これは,立体にしてその雰囲気を試す価値があると考えた。
そこで,ひとまず,赤い色のスタンダードなものを色パラフィン紙で作ってみることにした。
出来上がってみると,頭が小さすぎるし,球状の形態に近くなりすぎた。更に,赤い色でそのまま制作したため,只の蛸にしか見えない。失敗である。これでは,夏の終わりの商店街の片隅にぶら下がっているかのようなイメージだ。
色を変え,オリジナルのイメージのように頭部を大砲の玉のような形にして少し大きめにしたらどうなるだろうか。試行錯誤は続くのであった。
「こんな解釈、ありなんだ!」展 ビジュアル公開
「ついに」というべきか「やっと」というべきか、「コレクション・リーディングvol.2 藤浩志と小国び塾が作る善三展」のビジュアル本日公開です。
展覧会タイトルは「こんな解釈、ありなんだ!」。
まさに、9組12名による善三作品解釈がぎっしり詰め込まれる展覧会です。
このブログでも紹介されている通り、9月16日からの展覧会に向けて絶賛プロジェクト中の小国び塾メンバーの皆さんですが、それぞれのアートプロジェクトは、各自の経験や生活と密接にかかわりながら、善三作品と思わぬ形で結びつき、個人の毎日の暮らしの中にこそアートの種があるのだということを見せてくれます。
あなたもきっと、「こんな解釈、ありなんだ!」とつぶやいてしまうに違いありません。
展覧会初日まであと18日!
結局何を伝えたいの???大人編【sawa】
【2017年7月31日(月)その②】
坂本善三美術館のアートクラブにて子どもたちに絶筆を描いていただきましたが、この日は美術館スタッフの皆さんにも一筆お願いしていたのです。
「うーん、なんて描こうかなー」と悩みながら、でも確実に筆を進めているところはさすが美術館スタッフ、といったところでしょうか。
そんな中、
び塾メンバーみなこさんがやってきました。
(写真はミニ鰹節削り機の刃の調整をしているところです。なんでって?詳細は今は割愛します。なぜならみなこさんが説明した方がグッとくるから。みなこさん、よろしくです♡)
私がこの日美術館へ来るというので、わざわざ絶筆を描きに来てくださったのです。
もうホントありがたいです…
前回のび塾の集まりの時に絶筆をお願いしていたのですが、今は浮かばないので後日、ということにしたものの、今日までずっっっっっっと気になって気になってしょうがなかったそうです。
しかも以前持ち帰っていただいた布に描いたものはどうしても納得がいかず、描き直したいとのこと。
(ここまでのハナシ、”絶筆”という観点からいくと、色々とツッコミが入りそうですが…笑。肝心なのは絶筆を絶筆らしく描くことではなくて、描くまでに何を感じたか、どう自分と向き合ったか、などが大切だと思っているのでいいんです!)
ということで、美術館内で、美術館スタッフの皆さんと一緒に改めて描いていただきました。
そこでみなこさんが何を描いたかというと…
とある人の名前。
みなこさん曰く「”死”を考えた時に、この人のことが浮かぶ」とのこと。
そのことを表現するために、お名前を絶筆として描いてくださったのです。
なるほど…これは私自身もつい考えてしまいます。
自分にとって”死”をイメージした時に出てくる人物は誰だろう、と。
この日は、他のび塾メンバーさんからも絶筆をいただけましたので、大収穫。
一気に絶筆が増えました。
帰ってから、全体を眺めてみると、あることに気づきました。
みなこさんを始め、”名前”を作品として描いている方が数人いたのです。
あと、布いっぱいに描かれた”顔”。これも多かった。
顔や名前は、その人にとってのアイデンティティと言いますか、ご先祖様から個人個人に与えられた自分だけの宝物。
それを絶筆として後世に残したい、という無意識の欲求が筆を走らせたのかなぁ〜と勝手に妄想してしまいました。
名前や顔の描かれた絶筆。
ぜひ展覧会にてご覧いただき、「どんな人なんだろう?」と妄想していただきたいものです。
<31日の絶筆(大人編)→6枚>
・計 45枚
sawa
小国の街角から たねもしかけも
公開展示の日まで3週間を切ったものの、展示内容が定まらずちょっと焦りが出てきました。しかし焦ったところで良いアイデアが浮かぶはずがないので、ブラブラと散歩に出かけることにしました。いつも見慣れた風景も、腹をすかせた熊のようにギョロギョロ観察すると意外なものに出会うことがあります。
今回、採取したのはこちら。
「トタン仕立てのティピ」
森の中にひっそり暮らす小人の家のような風貌のこちら、温泉水を送るポンプを風雨から守る為の覆いとして作られています。必要に応じて、パイプを通すところや、中の様子を覗くところには開口孔が開けられています。構造的にはトタン製の円錐型回転シェル構造で美しく軽く持ち運びも容易です。用の美といいますか、工夫の結晶と出会った時の喜びは格別です。
結局何を伝えたいの???子ども編 Part1【sawa】
【2017年7月31日(月)その①】
この日は、坂本善三美術館の”アートクラブ”へお邪魔しました。
小中学生の子ども達が、何でも自分たちで考え自分たちで実行して、一つのアートプロジェクトを創り出すという試み。
元々は、その活動自体に興味があって。
現代の子ども達にとって”自由”って却って”不自由”だったりするので、プロジェクトの進め方や子ども達の行動や思考など期間中の子ども達の変化とか、大人たちの関わり方などを見てみたくて見学に来たのです。
で、今回はそれに加え、絶筆を子ども達に描いていただく、というある意味今までで一番壮大なミッションも実行しようと張り切って参ったのです。
美術館に着いた頃はちょうどお昼時。
この日は前日から泊まり掛けで活動していた子ども達。
美術館スタッフの皆さんが用意された素麺や地元の新鮮なお野菜を頬張っていました。
そして、私もみんなに加わっていただきました。
何しに来たんだ。笑
おかげさまで「バジルと醤油は相性抜群」という貴重な学びを得ました。
美味しかったー。し・あ・わ・せ☆
来年は絶対バジルを植えるぞ。
さて、お腹がいっぱいになったところで子ども達にお願いをします。
何せ”絶筆”です。
生きるとか死ぬとか、まだまだピンとこないお年頃です。
しかし、「どうせわからないだろう」と子ども扱いもしたくない。
どうやって切り出そう…とずっと悩んでいました。
これまで描いていただいた方々(主に大人)へは、今回の小国び塾の活動内容や善三先生の「絶筆」が描かれた経緯、そして今現在の自分にとっての”最後の絵なり文字なり”を描いて欲しい、という風な流れでお願いしてきました。
イメージとしては、死の恐怖に怯え苦しみながら描く、というよりも、今この瞬間に大切にしている物事や好きなことなどを描いて、それが絶筆として残ったらいいよね。
そしてそれを描くことによって、人の命とは限りあるもので、いつ終わるかわからないから毎日を大切に過ごしたいよね、という風に考えるきっかけにしていただきたいのです。
しかし、子ども達にそれを言ってもきっと難しいのではないか。
どう伝えたらいいのか…
考えた末、大人たちと逆の順番で伝えてみよう、と思いやってみました。
大人たちへは、”絶筆云々の説明をして”→”描いてもらう”という流れでしたが、
子どもたちへは”まず自由に絵を描いてもらって”→”もしかしたらこれが絶筆になるかもしれない”という説明をしようと考えました。
そっちの方が何か感じてもらえるかなーと思い。
本当はきっと”絶筆”というものは、誰からも指示されるものではなく、衝動のままに自由に描くものだと思うのですが、それを求めてしまうと大人も子どももみんな困ってしまう。
なので敢えて「絵でも線でも言葉でもなんでもいい」「今一番好きなものとかグッとくる言葉とかどうでしょう」とか、ちょっとだけ描きやすいように助け舟を出したつもりでいました。
子どもたちは、好きなミュージシャンの名前や夏休みにやりたいこと、今ハマっているらしいタッチのお花、顔、模様、好きなものがいっぱい散りばめられた絵、など色んな作品を描いていただきました。
こんな見ず知らずのおばちゃん相手に、一生懸命描いてくれてありがとねーーー(/ _ ; )
しかし、みんなが描いてしまった後にいざ”実はこれはかくかくしかじか…”という話をしようとしたら、雨がザーーーーーーーーーーーッと降ってきまして。
外で作業の途中だったチームの子達は「片づけなきゃ!!」と外へダッシュしていかれたので、結局これが”絶筆”として作品にするというお話は、約半数の子達にしか出来なかったとさ。。。
ああしまった…こういうこともあるのか…やっぱり最初が肝心だな、と反省。
そしてこの後、とある方とお話をしている中で、自分の愚かさというか浅はかさに気づき大いに絶望するわけですが…
長くなりそうなので、別記事で書きます。
<31日の絶筆(子ども編)→17枚>
・計 39枚
sawa
頂いたタネ、第一号
「+zen」です。さわやかな夏の朝です。善三美術館の近所の方が麦わら帽子に作業着姿で美術館の事務所にいらっしゃいました。そしてなんと、タネを分けてくださいました。
よくお庭できれいに咲かせたお花を美術館におすそわけしてくださってるご近所さんなのです。おそらくお花を分けてくださるように、このタネもくださったのでしょうけど、実はまだタネを集めているということは、町民のみなさんにも呼びかけてないので、ビックリ!ものすごくタイムリー!頂いたタネは「ふうせんかずら」です。
そして、袋を開いてタネを取り出してみると、ハート模様です。一番最初にいただいたタネとして、幸先いい!スタッフ一同大盛り上がりです。Sさん、ありがとうございます!
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ついか。ついタネのことばかり書いてしまいましたが、Sさんは今日このお花を持ってきてくださって、タネはそのついでのプレゼントでした。
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ついかのついで。
昨日、また別のご近所さんKさんが、美術教室で子どもたちが庭でワイワイしていると様子を見に来てくださって、ヘビの抜け殻(全身)をプレゼントしてくださいました。タネではないけど。